2014年6月27日金曜日

独りよがりな自転車ライダー



独りよがりな自転車ライダー
(http://www.hashslingrz.com/morally-self-elevated-bicycle-riders)

二輪のラッダイト著  安保夏絵・木原善彦訳

 セルビア人のテロリストとオーストリア・ハンガリー人の暗殺に関する酒場の会話にはもう飽きた。イギリスは国内問題だけで大変だ。女性参政権論者の過激派が至る所に爆弾を仕掛けている――セントポール大聖堂からイングランド銀行、数週間前にはウェストミンスター寺院にある即位式用の椅子の下にまで。まったく悩ましい。白目製のジョッキを口に運びながら、ネヴィル・ファイフヘッドは松に似たホップの香りを吸い込む。この黄土色の美味しいビールを飲めば再び自転車をこぐ元気が出る。ゴクゴクゴクと、バジャー・エールをもう一杯。店を出る時間だ。
 酒場を出たネヴィルは信頼性のあるローバー安全型自転車に乗り、小説家のトマス・ハーディーがショッツフォードと呼んだブランドフォードを去る準備に取り掛かる。ちょうどその時、新型っぽい自転車に乗る一人の若い女性が、道路の向こう側にある「クラウン・イン」の入り口から現れた。
「ごきげんよう。チェイス川を渡ってソールズベリーにいらっしゃるのかしら?」。彼女はおじることなく尋ねる。
「おっしゃるとおりです、マダム。トマス・ハーディー の有名な小説で描かれた全ての場所を訪れるために、私はこのローバー・コブ・バイクに乗って観光しているんです。次の目的地はメルチェスター」
「まぁ! あなたも文学作品に憧れて自転車で観光を? なんて素晴らしい偶然なのかしら。私はH・G・ウェルズの『偶然任せの自転車旅行(The Wheels of Chance)』でジェシー・ミルトンが走るルートをたどっているの。ところで、私の名前はビー。ビー・ミンスター」
 ネヴィルは彼女の積極性に少なからず驚いたものの――もちろんブルマとコルセットの下にある魅力的な体型にもたじろいだのだが――丁寧に帽子を軽く持ち上げ、少し照れてつかえながら言う。「お会いできて嬉しいよ、ビー」
 しかし、大量に飲んだビールの影響もあって彼はすぐにおしゃべりになり、会話が始まる。ネヴィルはハーディーの叙述の仕方について情熱的に説明し始める。ハーディーは比喩や繊細な細部、完璧な語彙選択を通じて、心と体と魂について複雑で、かつ現実味のある描写をする。しかし彼の小説は、イギリスの失われた理想郷に関する物悲しい思索を含む一方で、現代の変化を映し出してもいる。制御不可能な世界的規模の勢力としての産業化や帝国主義が田舎でも都市でも労働者の上に黒い雲を投げかけ、普通の人々は絶望し、無力になっている。寡占的資本主義や機械化が社会の全ての階層に浸透することで、結果的に人類を破滅させようとしている。
「ハーディの小説って必ずしも楽しいものじゃないですよね?」とビーが話に割って入る。「何かの出来事がある前に何ページも何ページも退屈な描写を続けたりしなければ、多少は楽しい作品になるでしょうけど。誰だって馬くらい知っているのに、ハーディーはそのたてがみを説明するのに二十ページも使う。私に言わせれば、彼はむちゃくちゃすさんだメロドラマを書く達人。しかも、他の誰よりも新しいタイプの女性を恐れています。『日陰者ジュード』では、ジュードの息子は首を吊って自殺する前に、弟や妹を殺す。ジュードが心の底から愛したスーは神なき生活から逃げ出す。そして色情狂のジュードは傷心し、一文無しになる。彼もまた、女性の気まぐれに振り回されて死んだ被害者というわけ」
 話題はH・G・ウェルズに移る。ビーはウェルズが文体の革新者であると考えている。ウェルズは一つの物語の中で、複数の語り手を次々と切り替える。あるいは、社会的な概観や論評を加えるために未来の歴史家の視点を設定したりする。「『宇宙戦争』には優れた兵器で侵略してくる火星人が出てくるの」とビーは説明する。「それは人間自身の滅亡の寓意なのよ。人間は自分たちの方が道徳的に優れていると信じてドードーやバイソンのような動物種を滅ぼした。その先には人類の滅亡がある。タスマニアのアボリジニたちは開拓移民が羊を飼うということで、まるでカラスのように撃たれた。何人かいた生存者も収容所に入れられ、病気や飢えで亡くなるまで放っておかれた。ウェルズは読者に、虐げられた人々の視点から植民地主義による侵略を考えさせるようにしているんじゃありませんか。化学ガスや熱線銃みたいな兵器……そんな技術が現実のものになったら――きっとそうなりますけど――一体ヨーロッパの列強はどうするんでしょう? ある人種や帝国に優越性がある、そして他の弱者を搾取し、酷使して商品として扱う権利を持つというこの思考は、奴隷制とともに終わるべきものだった。そして国と国との間に当てはまることは、国の中にも当てはまる。だから、今日のイギリスは女性はまだ参政権を得ていないの」
 会話を途中でやめたビーは突然、ネヴィルが坂に苦労しているのに気付く。足はペダルが上に来るたび、ギシギシと音をたてながら止まりそうになり、顔は驚くほど紫色だ。呼吸するたびに息切れをしているネヴィルは逆に、ビーがまるでヤギのように坂を踊りながら登るのを見て驚きを隠せない。そしてビーの自転車の後輪を見て初めて、ギアやテンショナー、レバー、ケーブルといった驚くべき構造に気づいた。
「これはフランスの最新の発明品なの。“変速機《ディレーラー》”」。ビーはネヴィルの視線が下を向いていることに反応して説明する。「このレバーを使うと、ペダルを漕いでいる最中にギアを速やかに切り替えられる。プーリーが二つあるからチェーンのテンションは保たれる。チェーンはアメリカで新しく発明された小型のジャイロコンパスにつながっているの。自転車をこぐと、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》がものすごいスピードでジャイロを回転させて、ジャイロは重力の力によって正確に北の方角を示す。それを利用して、私が左右に曲がるときには方角が修正される。そして、サイン、コサインの値を差分ギアボックスに入れて、直交速度ベクトルを割り出し、二つのサイクロメーターを動かす。要するに、緯度方向と経度方向に移動した距離を別々に計測するわけ。残念なことに、坂道があると測定に誤差が生まれるけれど、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》があるから、ジャイロコンパスの慣性の力を車輪に伝えることが可能なの……そしたら、ビューン! すいすーい! 貯めたエネルギーを使って勝手に登っていく。テクノロジーとはすごいものね。いつか、エンジニアが一定の周波数の無線局でネットワークを作って、信号の位相の違いを比べることで、今いる場所が正確に分かるようになるでしょう。想像してみて! もう二度と、迷子になることなんてないのよ。そんな技術が生まれたら、一体何ができるか考えてみて」
 ネヴィルはビーが言っているちんぷんかんぷんな科学の話を全く理解できない。地図とコンパスで何がいけないのか。そもそも彼女の言っていることは可能なのか、それとも彼女のおしゃべりはウェルズ風のサイエンスフィクションなのか。人類が科学技術の発展に支払う代価、すなわち工場や怪物のような軍事資源はあまりに高すぎる。しかし、リングウッドへの曲がり角に達する頃には、信じられないことに、似ても似つかぬ二人の意見が一致する。自転車というものは質素だが、人類最大の発明品であることは、ラッダイトでも認めるところだ。自転車は産業化時代の究極の産品であり、全ての人に自信と自由を与え、活力と精神的な豊かさを維持させる点で並ぶものがない。まさに、ウェルズ氏が主張するように、“自転車に乗る大人を見ると、とても人類の行く末に絶望する気にはなれない”。まったくその通りだ、とネヴィルは思う。

【訳者解説】
 ピンチョンさんの小説を読む限り、彼が自転車に乗ってそうな感じはあまりしません。『ブリーディング・エッジ』には、ニューヨークの街を独りよがりに走る迷惑サイクリストがちらっと登場したりする(この作品のタイトルが出て来る箇所)ので、むしろニューヨーク居住者として自転車乗りをよく思っていないのかもしれません。ちなみにタイトルは、『ブリーディング・エッジ』内ではあまりよくない意味で使われたフレーズ。でも、この短編の中では、「自分で勝手に坂を登っていく自転車」という意味になっています。
 この短編を書いた「二輪のラッダイト」(ハッシュスリンガーズさんと同一人物?)さんは自転車が好きらしくて、短編にその愛情がみなぎっています。
 ピンチョンさんはさておき、自転車好きの有名人でPさんとどこかしら共通点がありそうな人はたくさんいます。パソコンのことを「知の自転車」と呼んだスティーヴ・ジョブズ(詳しいことはこちらのHPなどを参照)。自転車旅の滑稽小説『偶然任せの自転車旅行(The Wheels of Chance)』を書いたH・G・ウェルズ(小説はグーテンベルクプロジェクトで読めます。梗概を読む限り面白そうですが未読。どうやら日本語に訳されたことはなさそうですので、邦題も定まっていません)。アインシュタインは自転車に乗りながら相対性理論を考えたとか、JFケネディが「自転車に乗る純粋な喜びに勝るものはない」と言ったとかいうはなしもこちらに紹介されています。海外文学のファンなら「自転車小説と言えばフラン・オブライエンの『第三の警官』(つい最近、白水Uブックスで復刊)だろう」という方もあるかもしれません。
 ハーディー好きな男(古風な男)とウェルズ好きな女(今時な女)が自転車旅で出会い、女は変速機・摩擦駆動装置・アナログナビ付きの最新型自転車で颯爽とダンシングしながら坂を上り、男は顔を紫にして必死に坂を登る……。面白い構図だと思います。変速機はもちろん実在しますが、ここに記述されるような自転車ナビは存在しません。でも、摩擦駆動装置《フリクションドライブ》というのはかなり古くから実在します。電動アシスト自転車みたいに、必要に応じて後輪をモーターで回転させる装置。いわゆる電動アシスト自転車はハブの部分で回転を伝えるのだと思いますが、フリクションドライブはタイヤのゴムの部分に回転を伝えるので、普通の自転車に取り付けたり、坂のときだけ装置をタイヤに接触させたり、と自由度の高い道具みたいです。
 ローバーの自転車はここで見られます。
 とか、ちらちらと検索をしていたら、トマス・ハーディーがローバー・コブ・バイクに乗っていたという記事を発見しました。記事を読むと、ずっと馬車で移動していたハーディーが最初に自転車に乗るようになったのは、“進んだ女”だった奥さんに勧められたのがきっかけだったとか、一日で40マイル(60-70キロほど)走ったりしたとか。勉強になりました。というか、上に添えた写真こそ、ハーディーとその自転車ではありませんか!
 自転車のことばかり書いていたら、『日陰者ジュード』とか、女性参政権運動とか、時代設定(1914年)とか、他のネタに註を添える力が尽きました……。

(了)

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