2013年11月7日木曜日

もう一つの、もっと輝かしい世界



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

もう一つの、もっと輝かしい世界
(http://www.hashslingrz.com/other-brighter-world)

 『アーカンソー・ヘラルド』紙の新米記者カルヴィン・ゼファームはさまざまな仕事を任されていたが、その内容は一言で説明できた。要は、ベテラン記者が嫌がった全ての取材ということだ。今週任されたのは、現在カナダからアーカンソーに来ている竜巻追跡人ルービン・エイサーの特集記事。ホワイトウォーター疑惑を暴いた記事みたいなスクープとは大違い。しかし、今年は例年よりも竜巻の数が急激に増えているから、カルヴィンの記事が話題になる可能性もなくはない。
 カナダ人らしく几帳面なルービンは、ミラー郡のトウモロコシ畑で要領よく気象観測用気球を組み立てながら、大気の仕組みをカルヴィンに説明した。
 「地球の気候は不可逆過程だが、均衡が取れている。低エントロピーの太陽からの、エネルギーに満ちた放射熱が地球を温め、私たちが“天気”と呼んでいる巨大な熱機関を駆動し、赤道付近の大気を極付近へ、地面近くの大気を上層へと動かす。宇宙にあるものはすべて、熱力学の法則に従わなければならない。気候機関内の乱流は大きなエントロピーを生む。地球はその均衡を保つため、波長の長い高エントロピー放射を宇宙に向けて放つ。今年は例年になく強烈な竜巻がたくさん発生している。通常と逆向きに回転するこれらの発作的混沌は、世界が変容したことを示している。人類が引き起こした大気汚染がエントロピーの均衡を乱してしまったということだ。最終的にこれがどんな結果を招くかは誰にも分からない」
 彼がそう言う間にも、つい先ほどまで晴れ渡っていた青空がにわかに暗くなった。雷が鳴り、周囲を稲妻が囲んだ。突然、巨大な竜巻が発生した。直径おそらく一マイルはあろうかという渦がうなり、耳障りな轟音が回転しながら彼らに迫った。
 「竜巻だ、竜巻だ! 真っ直ぐこっちに向かってくる。あなたみたいなカナダ人は大丈夫でしょうが、私らには無料の医療保険がないんですよ」。カルヴィンは切羽詰まった悲鳴を上げる。
 「竜巻の風はそれ自体ではさほど危険じゃない。ウェストにこの紐を巻くんだ。いろいろな物が渦巻いている高さを超えて、竜巻の速度とシンクロすればもう大丈夫。上空に行くにつれて寒くはなるけれど――この帽子をかぶりなさい」。そう言って手渡した毛編みの赤い帽子には当然のように白いカエデの葉のマークが記してある。まるでそれが危険を寄せつけないためのお守りであるかのように。
 二人が綱を体にくくった途端、気球が激しく不安定な円を描きながら上昇を始めた。ちょうどカルヴィンの気が遠くなってきたとき、突然回転が止まり、周囲の空気が静かになった。二人は直径わずか一ヤードしかない竜巻の目に入ったようだ。ルービンはまるでそれが日常茶飯事であるかのように、ラジオゾンデのディスプレーを片手でつかみ、反対の手でベルトからクリップボードを取り出して、グラフに点を打ち始めた。
 「この竜巻はすごいな。ハリケーンの場合と違って、竜巻が安定した目を持つことは非常に珍しい。しかし、それよりさらに信じがたいのは……この|断熱図《テヒグラム》を見なさい。本当に独特だ」。彼はグラフを四十五度傾けた。すると、点を結んだ線がほとんど垂直になる。「断熱図をこの角度に傾けると、エントロピーの軸が縦になる。私たちが上昇する間に、中心部のエントロピーがとんでもない速度で低下しつつある。通常のエントロピーを完全に反転させた形だ。まるで竜巻がマクスウェルの魔物そのものになったみたいだ」
 「すみません。地面を離れた段階からお話について行けてません。数学とか理論とかが苦手なもので。でも、あの虹の向こうに見える物はいったい何? あの、空が真っ青に見えるところの?」。カルヴィンは竜巻の目が広がり、色とカーブが逆転した“逆さ虹”が見えている部分を指差した。そこはまるで、もう一つの、もっと輝かしい世界から照らされているかのように、まばゆい青の光に囲まれていた。
 気球が上昇するにつれ、徐々に大きく見えてきたのはドイツ空軍の飛行船だった。側面には鉄十字のマーク、四機のエンジンを備え、前方に司令用のゴンドラがある。竜巻からの空気の流れが彼らを飛行船へ近づけ、やがて乗組員の姿も確認できるほど接近した。制服を着、|角兜《つのかぶと》をかぶった乗員が彼らに機関銃を向けた。
 「ラジオゾンデの計測によるとエントロピーが劇的に低下している。これはつまり、不可逆なはずの熱力学的過程が逆行しているということだ。私たちの目の前で今、ロシュミットの逆説が起きている。竜巻の巨大な回転が時間の矢を逆転させたのだ。ひょっとしたら過去からの時間旅行者もいるかもしれない」
 「え? それはつまり、あそこに飛んでいるのが過去の世界から時間に逆行して吸い寄せられた本物のドイツ空軍の飛行船だってこと? そんな訳の分からない、非論理的な話は今までに聞いたことがない」
 「逆説というのは、筋が通らないから逆説なんだよ。私にもはっきり理解できているわけじゃないが、とにかく、もうここはアーカンソーじゃないみたいだぞ」

続く……



【訳者解説】
 エントロピー、竜巻、時間旅行、飛行船、虹、ドイツ。
 ホワイトウォーター疑惑とは、クリントン元大統領がアーカンソー州知事だったときの政治資金をめぐる疑惑。断熱図《エヒグラム》は、横軸に温度、縦軸に温位の対数を取り、等圧線、飽和断熱線、等飽混合比線が引かれたグラフで、大気の様子の垂直変化を示すもの(添えられた写真中央のグラフがそれ)。ローシュミットの逆説とは、エントロピーが不可逆に増大するとする熱力学の第二法則に関して、「時間対称的な力学から不可逆過程が導かれるはずがないので、どこかに間違いがあるはずだ」という反論のこと。逆さ虹は「環天頂アーク」とも呼ばれ、ネット上できれいな写真をいくつも見られます。マクスウェルの魔物(悪魔、魔)、エントロピーなどはピンチョンの読者ならなじみがあるはず。『競売ナンバー49』の中にも説明があります。
 カルヴィンの名は絶対温度を表す単位のケルヴィンとかかっているかも。ゼファーム(Zephirm)の中にも西風(Zephyr)が隠れているかも。ルービン・エイサーの名前も何かありそうですが不明。
 訳文中の「鉄十字」は「鉤十字」の間違いではありません。
 締めくくりの台詞は、ピンチョンお気に入りの『オズの魔法使い』のドロシーの言葉「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ」(『重力の虹』にも引用されている)のもじり。最後の最後の「続く……」は、本当に続くのかどうか不明(冗談?)。

(了)

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