2013年10月2日水曜日

ベーグルが足りない



ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

ベーグルが足りない
(http://www.hashslingrz.com/bagel-deficiencies)

 胸に響く超低周波の振動が大地を揺らし、高温の白い炎が横に噴き出した。まるで太陽がついに地球と衝突したかのように。しかし次の瞬間、静寂。マリー・ガンマーは、これまでに記録された推力《スラスト》の最高値を期待しながら、推力計に取り付けられた自動記録器をチェックした。安定した持続的燃焼を示す直線のグラフ。これだけの結果が得られればロケットダイン社は、アメリカ合衆国最初の衛星を軌道に打ち上げる計画に復帰できる。一日の始まりとしては完璧な成果だ。とはいえ彼女は今日も、また別の“専門家”と呼ばれる精神科医と会い、くだらない検査を受けなければならない。他のセキュリティーがらみの面倒な手続きと同様に、こうした検査には切りがなく、面倒なことこの上ない。
 マリーはオフィスのある建物に行き、陽気な足取りで面接室に向かった。部屋の前の受付には若い女が座っていた。分厚い化粧。ふっくらと逆毛の立った髪型。忙しそうにマニキュアを塗っている。
 「グロスマン先生と予約をしている者ですけど」
 「“来たらすぐに通しなさい”と言われてます」
 部屋に入ると、グロスマン医師が床で、実物大に作られた牛のジグソーパズルらしきものを組んでいた。それぞれのピースには、“|腰肉《ショートロイン》”、“|肩バラ肉《ブリスケ》”、“|脇腹肉《フランケ》”といった部位の名が記されていた。彼の足下には別のカードが一組置かれており、いちばん上のものには“統合失調症《スキゾフレニア》”と書かれている。グロスマン医師は今からパズルのピースとカードの組み合わせを作ろうとしている。彼女はそんな印象を受けた。
 「ああ、カードが気になります? 今、牛のどこの部位を食べたかということと精神病との関係について研究をまとめているところなんです。私はキャリアの出発点として例の変人、フロイトに弟子入りしました。フロイトとその追従的な弟子どもは皆、精神《プシケ》の源は性《セックス》だと信じています。母の乳房を吸う赤ん坊。彼はそこにフェラチオを見る。便秘の|子供《ピツェラー》が小児用便座にまたがる。するとフロイトは、その子が何年か後に肛門性交《アナルセックス》を求めると言う。あなた、小児用便座を使ったことは? アナルでやってみたいと思います?」
 「え、あ、いいえ……でも、ここへはそういう相談で来たんじゃありません」
 「ええ、違うと思いました。私は以前、彼の話を何でも聞いて、信じていました。ヒトラーが現れるまでは。彼はその後、ロンドンに逃れ、さらなる名声を得た。かたや私には金がなかった。私はナチスの強制労働収容所で三年を過ごしました。ろくに食べるものもなく、骨と皮になった。しかし、貧窮と飢餓の中で突然、ひらめいたんです。真に精神を突き動かす源を私は発見した――食べ物ですよ。ペニスじゃない。連想テストで具体的に説明することにしましょう。果物といえば?」
 「洋梨」
 「あなたは自分の体型について悩んでいます。では、チーズは?」
 「リンブルガー」
 「チーズの好みを無意識のレベルで決定しているのは母親の乳房です。お母様は不衛生で、体臭の強い方だった。朝食」
 「ベーグル」
 「これは予想外の答えだ。興味深い。ひょっとして、ユダヤ系の方なのかな。他人を食べさせていかなければならないという衝動をお感じになる? この点はもっと詳しく調べる必要がありそうだ。ベーグル」
 「足りない」
 「“ベーグルが足りない”? ベーグル屋の組合がまたストライキでもやっているんですか?」
 「“ベーグル”っていうのは、私の研究チームが開発した新しいロケット燃料の名前です。六十パーセントがジメチルヒドラジン、四十パーセントがジエチレントリアミン。それを液体酸素LOXと混ぜる。つまりベーグル&塩鮭(lox)」
 「ああ、なるほど。サーモンとクリームチーズ入りのベーグルね。私もあれ、大好物です」
 「でも、軍の連中の意向で“ハイダイン”と改名されることになりました。将軍と呼ばれる人たちって本当に傲慢で自己中心的。一緒にいると、こっちに何かが足りない気がしてくる」
 「ベーグル、サーモン、クリームチーズ。最高じゃありませんか。手の届かぬ理想を持ち続けることです、ガンマーさん。頭のおかしな男どもなど放っておきなさい。私はそういう連中を今までにたくさん診察し、慢性的なソーセージ羨望の症例をいくつも発見しました。死に至るケースだってある。アメリカ人の場合、体ばかり大きくて頭が空っぽな父親が野球を見ながら大きなブラートヴルストを次から次に食べてたりするでしょう? その横で子供らが小さなナックヴルストを食べている。それがしばしば、子供の心の中に精神の病や恐怖心を生む原因になる。そんな子が大人になると、ブラートヴルストという魔物を追い払うために巨大なロケットを求めてしまうんです。でも、あなたは正気でいらっしゃるから、もうお帰りになって結構ですよ」
 マリーはもう一度促されるまでもなく、すぐに部屋を出た。

(故ロケットガール〔http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Sherman_Morgan〕にお詫び申し上げます)


【訳者解説】

ピンチョンの 『ブリーディング・エッジ』には、警官たちが近所にベーグル屋がないと文句を言いながらカフェに入るという一節がある(二頁)。タイトルはそこから取ったもの(今回は、訳者が提案して書いてもらったもの)。
 中身はロケット燃料開発と精神分析の変種という、まるで『重力の虹』から引き写したような設定だ。ガンマー(Ganmor)はモーガン(Morgan)のアナグラム。つまり、「ロケット・ガール」とあだ名された実在の女性ロケット研究者、メアリー・モーガン(一九二一-二〇〇四)という人物が下敷きになっている。ここにも訳出したが、短編末尾には故人に向けて、「からかうような書き方をして申し訳ない」という意味で記されたと思われる謝罪文が添えられている。ロケットダインはアメリカ合衆国の液体燃料ロケットエンジンの主要な設計製造業者として実在し、モーガンは第二次世界大戦後、この会社に入り、ハイダインというロケット燃料(その組成は本文中の説明にある通り)を開発した。
 「子供」という意味の pitseler 、「頭がおかしい」という意味の meshugeneh などはイディッシュ(ユダヤ系の人が使う言語)なので、この言葉を発する精神分析医がユダヤ系だと分かる。「リンブルガー」はベルギー産の、香りと味の強い熟成チーズ。日本人にとっても珍しいものでなくなったベーグルは元々ユダヤ人が食した伝統的なパンで、「ベーグル」というのもイディッシュの単語。「ブラートヴルスト」はドイツ系移民がアメリカに伝えたソーセージで、日本で言うフランクフルトのようなもの。「ナックヴルスト」(またはクナックヴルスト)はパキッという食感の太くて短いソーセージ。
 お題を出されてからわずか三日で書き上げたこの短編でいちばん凝っているのは、液体酸素(LOX)と塩鮭(lox)を駄洒落にして、ロケット燃料の開発コードを「ベーグル」と設定しているところだ。「液体酸素」をお題に出されてこのネタを思いつく人はいるかもしれないが、「ベーグル」という単語からこの話を思いつく作者はすごい。

(了)

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