2013年9月27日金曜日

ブリーディングエッジカラオケ


ハッシュスリンガーズ著 木原善彦訳

ブリーディングエッジカラオケ

 横須賀米軍基地から二、三ブロック入った裏通りに、ヒデアキのカラオケバーがある。入り口に掲げられていたネオンサインは、数年前の台風「キロギー」以来、行方不明のままだ。しかし、口コミのおかげでヒデアキの店は、上陸許可をもらった水兵の行きつけとなっている――少なくとも、即興演奏を愛し、八分の十一拍子を刻める水兵にとっては。というのもヒデアキは、エリック・ドルフィーを記念して世界で初めて作られたカラオケバーだったから。
 狭くて薄暗い入り口から地下に、高さがばらばらの木の階段が延び、その先のドアを開けると、厨房の裏で魚を燻製にする煙とすえた臭いに満ちた部屋がある。客は小さなテーブルの周りに腰掛けて舞台の方を向き、隣のテーブルでリズムをシンコペーションする足踏みに合わせて頭を上下させる。誰もが何かしらの楽器を、店に持ち込んでいる――バスクラリネット、トランペット、サキソフォン、ドラムスティック、ブラシ、小槌(楽器用もそれ以外も)。一人の男が手にしている巨大なトライアングルは、いかなるバッソプロフンドよりも低い音を発しそうだ。テーブル三つはカズー専用。他は適当なもので間に合わせている――自転車のフレーム、如雨露《じょうろ》、ボートのエンジン部品。
 横須賀にあるよそのカラオケバーと違い、ここでは録音された伴奏が流れることも、歌詞字幕の付いたビデオが映し出されることもない。人呼んで、「リズム・モード・カラオケ」あるいは「フリー・カラオケ」。分類不可能だと言う者もいる。夜の九時頃、客同士の会話が急に静まる。店の主人であるスギモリ氏がカウンターに近づいて客の方を向き、「帽子と髭」と宣言。すると四、五人が舞台に上がり、セロニアス・モンクの引用みたいなリフを即興演奏し始める――ただし楽器はスーザフォン、自転車のシートポスト、ユーフォニアム、カズーだ。和服を着たウェイトレスが巨大なサーバーで辛口の日本酒をテーブルに運ぶ。タンブラーが満たされては空《から》になる。そして客はタンブラーを空にするたび、新たなスキャットを叫ぶ。舞台上のバンドがフロアから聞こえたフレーズを取り入れ、反復し、テーマを発展させ、やがてまた別のタンブラーが空になり、新たなスキャットが舞台に届く。
 間もなく、ウェイトレスたちが寿司や刺身の皿を客に出す。燻製マグロの握り、タコの足でくるんだ豆腐、生わさびを添えたイカとウナギ。それを見ただけで、隣のテーブルに座る客の目から涙が流れる。さらに店の名物料理が届けられる。鋳鉄製の焼き板で熱々のまま出される、エビとチーズの入った|お好み焼き《パンケーキ》だ。ウェイトレスは厨房と客席の間を駆け回り、皿を置くときも、日本の寿司屋というより、ニューヨークの安食堂みたいに乱暴だ。
 エビとチーズの臭いを嗅ぎつけた舞台上の演奏者が二、三人、自分のテーブルに戻ると、別の客がその後釜に座り、どんどん酒の進む客席から次のスキャットが提案されるのを待ち受ける。ローテーション演奏は真夜中過ぎまで続く。奏者は聴衆と交代し続ける。たまにスギモリ氏が「甘い曲、テンダーな曲」あるいは「とにかく起伏のある曲」と新しいテーマを叫ぶと、音楽が滑らかに新しいアルペジオ、調《スケール》、拍子に移行する。その後、水兵たちが徐々に船に戻り始め、夜が明ける頃には、ヒデアキのバーがようやく静かになる。
 スギモリ氏とウェイトレスたちが床とテーブルから、食べ残しのイカを片付け始める。スギモリがいちばん古株のウェイトレスに声を掛ける。「ミチヨさん。俺、今度は、文学のためのカラオケバーをやろうかと思うんだ。トマス・ピンチョンみたいな、すごくジャズっぽい作家がいるだろ? リズムを何度も切り替え、協和音に不協和音を混ぜ、終わりと始まりがぶつかり合ってる作家。『ブリーディング・エッジ』から取ってきたフレーズを誰かが大声で叫ぶと、別の誰かが即興でストーリーを作る。そこで酒を一本か二本飲ませたら、みんなも乗ってくるんじゃないかとおもうんだけど」
 スギモリは視線を落とし、溜め息をつく。「見てくれ、この床の散らかりようを。名前は、そう、ハッシュスリンガーズにしよう」
 「どうかしてますよ、スギモリさん。酔っ払った文学愛好家が書いたピンチョンもどきの文章なんて、誰が読みたいと思います? 先週この町に来たビートルズのトリビュートバンドとどっちもどっちの最低な思いつきですね」
 「そうかもな」と彼は笑顔を浮かべる。「けどとりあえず、宣伝文句はこうだ。あなたの書いた物語をスギモリにお送りください」
 彼は掃除の手を止めることなく、床に向かって言う。「ハッシュスリンガーズ。ヒデアキのバーと同様、誰でも歓迎。ルールは明記されていないものが二つ、三つあるだけ。ハッシュスリンガーズのスギモリ宛てにお送りください」

(http://www.hashslingrz.com/bleeding-edge-karaoke)

【訳者解説】
 この短編は、ピンチョンの作風をジャズにたとえている部分が興味深い。実際、彼のジャズ好きは、広く知られている数少ない個人的興味の一つだし、これまでにも何人かの批評家・研究者が彼の作品をジャズにたとえてきた。そして翻ってみれば、ここに訳出した四編が「ブリーディングエッジカラオケ」の実演だと分かる。いわゆる「メタフィクション」的に、この作品が他の作品を入れ子にしている。
 だが、話はそれだけで終わらない。さらに興味深いのは、結末でスギモリ氏が「ハッシュスリンガーズのスギモリ宛てに〔あなたの物語を〕お送りください」と呼び掛けている点。今、この文章をお読みになっているあなたもぜひ、「ブリーディングエッジカラオケ」に参加してみられてはどうか。つまり、『ブリーディング・エッジ』中の適当なフレーズをタイトルにして物語を書き、sugimori[at]hashslingrz.com に送ってみるのだ。数少ない条件の一つはもちろん、英語で書かれていることだ。ただし、その後の展開がどうなるか、訳者の保証するところではない。
 語句についての注釈を。日本では台風を「○年の×号台風」と呼ぶのが通例だが、国際的には個々の台風の名で呼ばれることが多い(アメリカのハリケーンにも名前がつけられる)。台風「キロギー」は二〇一二年の台風十二号のこと。
 音楽(主にジャズ)関係の用語も多く登場するので、なじみのない読者は面食らうかもしれない。エリック・ドルフィー(一九二八-六四)はカリフォルニア州出身のバスクラリネット、アルト・サックス、フルート奏者。伝統を踏まえつつ先鋭的で、独特のアドリブで知られる。「バッソプロフンド」は最低音域の荘重なバス声部のこと。「カズー」はおもちゃの笛の一種。口にくわえてハミングするとブーブーと音がする。一風変わった楽器としてミュージシャンが用いることもあり、ピンチョンお気に入りのアイテムの一つ。ここに出てくるトライアングルもそうだが、笑えるほど巨大な楽器は彼の作品に時々登場する。セロニアス・モンク(一九二〇-八二)はピンチョンが昔から敬愛するジャズピアニスト。その風貌は「帽子と髭」が印象的で、しばしば哲学的な一言を発したことでもよく知られる。「ユーフォニアム」は中低音域の金管楽器。「スキャット」は、歌詞の代わりに意味のない音節を用いる即興的な歌い方。

(了)

2013年9月25日水曜日

当店のメニュー

メニュー

食事のお客様はぜひ各自、食材をお持ち寄りになり
にて、ご自分で調理を
(*条件:アイデアとタイトルは『ブリーディング・エッジ』から取ること。ピンチョンっぽいスタイルで千語以内。著作権の扱いを明記して sugimori [at] hashslingrz.com に送付。)

あるいは当店シェフのビュッフェメニューからお選びください
または、ゲストシェフのアラカルトメニューからもお選びいただけます
メイン: 重力のニジマス


(*訳者記 オリジナルページではもっと多くの部分にリンクが貼られています。
リンク先は pynchonwiki.com)

2013年9月24日火曜日

車輪の付いたアルミが襲う



ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳

車輪の付いたアルミが襲う

 新しい|千年期《ミレニアム》は高揚とともにやって来た。オーストラリアの工業技術マーケットは好況。株価は天井知らず。しかし、シドニーの|車両設計研究所《VDRL》は投資家の資本をすっかり使い果たし、好機をまったく生かせない。VDRLで働いていた最後の見習い、ジュリーナ・ガネッサは閉鎖的な研究環境に不満を持ち、何もかもパブリックドメインにさらすと捨て台詞を残してデータを全部持ち出してしまった。
 幸い、研究所には事態を好転させるささやかな可能性が一つだけ残されていた。ビクトリア州政府と先日結んだ契約に基づき、最近街で流行のアルミ製キックボードについてその安全性を検証するという仕事だ。必要なのは残された|わずかな資金《チキン・フィード》で仕事をやってくれる人物だけ。というわけで、フローとイーディスが面接に訪れたとき、このふたりにしては珍しく門前払いを食わされることはなかった。そんなはした金で生活していけるのは彼女らくらいだろう――なぜならフローとイーディスは、人付き合いにうんざりして田舎で暮らしている高学歴男の手によって言語学と物理学を教え込まれただったから。養鶏業を営むラクランは、妻がクロコダイルハンターと駆け落ちした後、鶏舎に長い時間入り浸り、長年すぐそばで観察した結果、鶏が想像よりはるかに頭がいいことを発見したのだった。
 「じゃあ、キックボードの安定性に関する動力学を分析すればいいわけですね」とフローが復唱した。「朝飯前です」とイーディス。「他の二輪車両を扱った先行研究から外挿的に推定するだけ。比較と対照。安定性、操縦性、頑健性。どれも既に確立された計算です」
 ふたりは新たな雇い主になんとか気に入ってもらおうと、翌日すぐに仕事に取り掛かった。重心の計算、ハンドル角の計測、内輪差。
 いつも実験重視のフローはマウンテンバイク、BMX用自転車、そして最新モデルのレーザー社製折り畳みキックボードに乗る人々のビデオを検証し始めた。経験主義的分析の確かさを堅く信じる彼女は、キックボードはどの二輪車両にも劣らぬ安定性と操縦性を備えていると確信するにいたった。
 しかし、イーディスは理論的な側面にこだわった。どんな計算をしても予想は一致した。角運動量は極小、メカニカルトレイルもゼロ。そしてその結果、情けないほど低い値の臨界速度を超えた途端に必ず生じる自然発生的振動。イーディスは、こりゃ全然駄目だと思った。
 「ねえ、イーディス。このキックボード、楽しそうよ。ちょっと試しに乗ってみない?」
 「フロー。いくらあなたに翼があったって、前輪のぶれを無視はできないでしょう? 危険なおもちゃよ」
 「ご託はいいから、イーディス。理屈ばかり言うあなたのその、上から目線にはうんざり。あたしならこんなもの、目をつぶってたって乗れる」。フローはそう言ってキックボードに飛び乗り、ビクトリア州交通局に向かう坂を一気に下り始めた。
 安定性に関してはフローの意見が正しかったかもしれない。次の交差点に達した頃には速度が時速二十キロまで上がり、矢のように走っていた。しかし、至福の瞬間はまた、後輪のブレーキがいかにお粗末かを知るのと同時だった。後輪はロックし、|三前趾《さんぜんし》型の足が滑らかなアルミ板の上を滑り、フローは通りに投げ出された。羽毛が宙に舞い、アルミはそのまま坂の下へ。
 ガン! キックボードは警官の左すねに衝突。骨が見えそうなところまで、肉が切れる。フローは慌ててとんずら。ピート・ライアン警視が立ち上がり、手帳をめくった。「さて、イーディス。改めて、最初から聞くぞ。君はこれが友人のキックボードだと認めるんだな。では次に、もう一度証言してもらおうか。どうしてその鶏は道を渡ったんだ?」

(http://www.hashslingrz.com/ambush-rolling-aluminium)


【訳者解説】(ルビの書式は青空文庫形式)

 ピンチョン『ブリーディング・エッジ』冒頭に近い部分(二頁)に、ニューヨークの街中でキックボードに乗る子供が増えて危険だという話が出てきて、そこで「車輪の付いたアルミによる奇襲」という、いかにもピンチョンらしい奇妙なフレーズが用いられている。この短編のタイトルはそれをそのまま用いているが、内容は『BE』とは無関係。長編に登場する印象的なフレーズを一つのお題としてスピンオフ短編を作ったという、いわば大喜利的なサービスだ。
 この短編では、「鶏が道を渡ったのはどうしてか?」「反対側に行きたかったから」という定番の謎々が下敷きに使われている。日本で「パンはパンでも食べられないパンは?」「フライパン」という謎々を知らない人がいないのと同様に、英米ではこのネタを知らない人はいない。ここではそれにバリエーションが加えられている。「反対側に行きたかったから」という答えは当たり前すぎるせいで笑えるが、「キックボードの安全性を確かめたかったから」という答えは逆に、鶏にしては突飛すぎて笑える。加えて、「|わずかな資金《チキン・フィード》」という口語表現が本物の鶏《チキン》の登場を招くのも分かりやすいギャグ。訳文中、「こりゃ全然駄目だ」と訳したイーディスの言葉は、原文で "this bird just wasn't going to fly" つまり「この鳥は飛びそうにない」の意。これは「代物、変なもの」の意味で用いられたbirdという単語を使った言葉遊び。もちろん、その言葉遊びをしているのは鶏だから、二重に面白い。
 他方で、「警察官(copper)」「警視(superintendent)」「田舎(outback)」といった語彙の選択には、米国英語と異なる豪州英語に対する作者の意識が明確に見られる。「三前趾型」とは鳥の足に関して、「第一指が後ろ向きに、残り三本の指が前向きになっている」のを意味する言葉。「メカニカルトレイル」とは二輪車の操縦軸と前輪タイヤ接地点の距離を表す工学的な専門用語。一般に、メカニカルトレイルがゼロに近いと走行安定性が低くなる。冗談めいた短編にこうした専門的な術語を混ぜるのもピンチョンっぽい。研究所名の略号VDRLは通常、「性病研究所」を表すので、これもピンチョンっぽい下ネタ。
 研究所のファイルを持ち逃げし、それを公表すると脅す人物はジュリーナ・ガネッサ(Julina Ganessa)という変わった名で、ヒンズー教の神ガネーシャを連想させて思わせぶりだが、綴りを少し並べ替えるとジュリアン・アサンジ(Julian Assange)となる。言うまでもなく、ウィキリークスの創始者だ。彼はオーストラリア人。
 鶏のフローとイーディスは、ミュージシャンのフランク・ザッパ(一九四〇-九三)と一緒に仕事をした元タートルズのフローとエディを念頭に置いた命名か。

(了)

2013年9月21日土曜日

宿題の出る精神病院



ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳

宿題の出る精神病院

 明るいけれどまったく暖かくない冬の太陽が隣家の屋根の向こうに沈もうとする頃、フルトン爺さんがストーブの薪に火を点けようと立ち上がった。孫のジョー・フルトンは爺さんに聞こえない声で「畜生」とつぶやきながら、次の宿題の山に取り掛かる。
 「今日の宿題もまた大変そうだなあ、ジョー。何か、この爺ちゃんに手伝えることがあるかい?」
 「あるかも、お爺ちゃん。今回は歴史のレポートがあるんだ。コロンブスとかマゼランみたいな冒険家がどんなふうに船の位置を確かめ、針路を決めたか。お爺ちゃん昔、海軍にいたんだよね。船長さんは船が今いる場所をどうやって知るの?」
 爺さんはマッチを擦って火口《ほくち》に火を点け、炎が上がるのを見てから肘掛け椅子にゆったりと腰掛けた。
 「うん、坊や。コロンブスは大海原で、推測航法というものを使ったんだ。船首に木切れを落として、それが船尾に達するまでの時間で速度を測る。そして針路は羅針盤で確認。一時間ごとにそのデータを航海日誌に記録する。でも、問題が一つある。空間の中で自分がいる位置を確認するには、まず時間の中での位置を確かめなければならん。緯度は簡単だが、経度を確認するには|経線儀《クロノメーター》という精密な時計が必要だ。だから彼は結局、キューバに辿り着いたとき、そこをインドと勘違いした」
 「原子力潜水艦で機関兵曹長をしとったわしみたいな人間にとって、艦の位置はもっと謎さ。初めてノーチラス号に乗ったときは、高圧送気管のメンテナンスがわしの仕事だった。航海《ナビゲーション》はもっぱら、航海士と艦長の仕事だ。艦にはトップシークレットの新型スペリー=ランド式ジャイロコンパスが備えられ、生まれたての赤ん坊みたいに大事に扱われておった。トランジスター回路と三次元姿勢保持ジャイロ。その回転するコマは地球に対してじゃなく、星に対して定位する。空気がベアリングに使われているから、いわば、コマは完全に母なる地球から切り離されているわけだ。ドイツのロケット研究が生んだ究極の製品のおかげで、艦は水温躍層のはるか下に潜っていられる。エイハブが追う鯨以外にはわしらの姿は決して見えない」
 「それが特殊任務だということはすぐに分かった。艦長と航海士がいつも交代で慣性航行装置室に入り、鍵を掛けて閉じこもっていた。水深が浅いときは、海底のテッポウエビの動きにドップラー効果が見て取れるから、速度の見当がつく。磁石を使ったコンパスは鋼鉄製の船体内では使い物にならん。だが、海軍生活の長い一等兵なら船体の温度でおおよその緯度を言い当てられた。誤差は二度ほどでな。全速力で二週間ほど進んだ後、ようやく乗組員は知った。ノーチラス号が氷の下、北極点に向かっているのを。当時の極氷は分厚かったんだぞ。だから艦は海面に出られなかった」
 「コックがだんだんと正気を失った。出すものは凍土《ツンドラ》チャウダー、白海豚《ベルーガ》ボロネーゼ、北極星《ポラリス》パストラミなんて料理。盛りつけも、田舎の|安食堂《ハッシュスリンガー》みたい。艦の食堂には「ジンバル・ロック」や「特異点」というささやきが谺《こだま》していた。そしてある日、コックが肉切り包丁を航海士の喉に突きつけるという事件が起きた」
 「航海士はいたって冷静に包丁を押しのけた。『私は|四元数《しげんすう》を使っている』。彼はただそう言って、ベーリング海《シー》ソーセージを手に、慣性航行装置室にまた閉じこもった」
 「艦長もおびえていた。しょっちゅうインターコムでオーネット・コールマンに怒鳴り散らした。フレディ・ハバードは何日も鶏みたいにギャーギャー不満を垂れてた。水兵たちは波もないのに|くらくら《ディジー》すると船酔いを訴えた。事態はさらに悪化して、ついにいきなり、みんなの体が宙に投げ出され、船体に打ちつけられた。そして赤ん坊が水栓に吸い込まれるみたいに、ブリキの亀が反時計回りに回転しだした。つまりそこが北極点。特異点さ。原子力エンジンなんて無力。艦は事象の地平面に呑み込まれていった」
 「わしらはそれから、地球の中心を通り抜けた。海流を見つけてそれに乗るのに何か月もかかった。未知の経路を使って地上に戻るとそこは、誰も見たことがないような荒海だ。近くの島の人間はそこを“|肉切り台《シャンブルズ》”と呼んどった。これがまた妙な連中でな。迷信のせいで“ウサギ”という言葉は決して口に出さない。自分らのことは“ポートランド人”と名乗っていた。まあ、そんなことはどうでもいい。わしらはとにかく地上に戻った。乗員全員に箝口令《かんこうれい》が敷かれた。とはいえ、わしが聞いた話ではあれ以来、潜水艦を使って地球の中心に秘密基地を建設する作業が進んどるらしい」
 普段の昼寝のタイミングを逃した爺さんはここで毛布を引き寄せ、まどろみだした。ジョーは必死に、まだ頭に残っている話をレポートに書き始めた。これでさすがに今回は、校長から両親に電話がかかってくることはないだろう――アスペルガーとか|注意欠陥多動障害《ADHD》とかコソコソささやくのが聞こえる電話。まるで少年にはそれが聞こえないと思っているかのように。


【訳者解説】(当ブログでは、ルビなどの書式は青空文庫形式)
これもハッシュスリンガーズ掲載の超短編。トマス・ピンチョンの小説に出て来る小ネタをうまく取り込みつつ、とぼけた語り口も面白い。超短編と言うにはあまりにも凝っているし、著者のにじみ出る知識が印象的です。


・「宿題の出る精神病院」(九月七日公開)について
 ピンチョンの『ブリーディング・エッジ』で主人公マクシーンの子供二人はクーゲルブリッツ小学校に通っている。ちなみに「クーゲルブリッツ」はドイツ語で球電の意味なので、この言葉で『逆光』を思い出すピンチョン読者も多いはず。小学校創設には、フロイトに破門された後、アメリカに渡った変わり者の精神分析医が関わっていて、彼の奇説に基づいてカリキュラムが作られているため、語り手はこの小学校を「宿題の出る精神病院」と呼んでいる(三頁)。それがこの短編のタイトル。
 「ジンバル・ロック」とは、三次元で航行する航空機や宇宙船で起こりうるトラブル。慣性航法システムのジャイロスコープにはコマのような回転体(ジンバル)が軸をずらす形で三つ用いられているが、船体・機体の回転によって三つのうち二つの軸が同一平面上に揃うと、方向や姿勢が分からなくなる。その状態がジンバル・ロックと呼ばれる(映画『アポロ13』にも、宇宙船が危うくその状態に陥りそうになる場面が描かれている)。ジンバル・ロックを防ぐのに使われる方法の一つが四つ目の数値を導入する「四元数」で、この数学的概念はピンチョンの最長作品『逆光』で重要な要素として登場する。「私は四元数を使っている」と訳した部分は、原文を直訳すると「私は四元数を使って料理している」となる。「四元数(quaternion)」は語尾の響きが「タマネギ(onion)」に似ているので、作家がそれを利用して一種の言葉遊びをしているのだろう。地球の中が空洞になっていて、南北の極点からそこに入ることができるという地球空洞説はピンチョンの作品で何度も使われている。また、経度の正確な計測のために|経線儀《クロノメーター》が用いられるというのはピンチョンの歴史大作『メイスン&ディクスン』で取り上げられる話題の一つ。
 ノーチラス号とは、米国海軍原子力潜水艦第一号の名。一九五四年進水、一九五八年に実際、北極の氷の下を進んでいる。技士・発明家のロバート・フルトン(一七六五-一八一五)が設計した世界初の潜水艦も、ジュール・ベルヌが『海底二万マイル』(一八七〇)で描いた潜水艦も名前はノーチラス号。「水温躍層」とは、ある水深で急に水温が低下する部分。「エイハブが追う鯨」というのは無論、ハーマン・メルヴィル『白鯨』への言及。「特異点」はブラックホールを作るとされる宇宙空間の仮説上の点。「事象の地平面」は簡単に言うと、ブラックホールの内部と外部を分ける境界面のこと。「ベーリング海《シー》ソーセージ」は、シーソーのように船が揺れる海域という言葉遊びか。北半球で渦が反時計回りになるというのも注意深い細部。
 この短編にはジャズミュージシャンの名がちりばめられている。オーネット・コールマン(一九三〇- )はテキサス州出身のサックス奏者。フレディ・ハバード(一九三八-二〇〇八)は、インディアナ州出身のトランペット奏者。ひょっとすると、それらに続いて用いられている「ディジー」という単語の裏に、ディジー・ガレスピー(一九一七-一九九三)も隠れているかもしれない。彼はサウスキャロライナ州出身のトランペット奏者で、ピンチョンが敬愛するチャーリー・パーカーとともに、モダン・ジャズの原型となるスタイル「ビーバップ」を築いた。
 また、ポートランドうんぬんという部分にも、知る人ぞ知るネタが埋め込まれている。イングランドのドーセット州ポートランド半島では実際、ウサギは凶兆としてタブー視されている。かつて坑道が落盤する前にウサギが穴から出て来るのが目撃されたのがこの迷信の源らしい。「肉切り台《シャンブルズ》」というのは、岩礁があって波の荒いポートランド近海のあだ名。
(了)

2013年9月20日金曜日

春の最初の日




ハッシュスリンガーズ・ドット・コム著 木原善彦訳

春の最初の日

 凍てつくような北東風が吹き、桜の花びらがキングズビア牧師館の窓の外に舞う。春が突然歩みを止め、意地の悪い冬がまた戻ってきた。ティモシー・ハーディ牧師は午前九時の天気予報をチェックしようとテレビを点けながら、今年のサクランボは駄目だろうなと考えた。
 イギリス人の大半は、毎日天気予報を見る――それが単に、その日一日、出会う人との避けがたい会話のネタを集めるだけのためだとしても。しかし、ハーディ牧師が日々儀式のように九時の天気予報をチェックするのには隠れた動機があった。BBCの予報をまめに見ている人なら、地図に表示される町がしばしば変わることに気付くかもしれない。しかし、予報地図にキングズビアが現れることの本当の意味を理解しているのは、ハーディ牧師をはじめとする一握りのMI6のエージェントだけだ。
 今日は地図に、南下する雪の記号とともにキングズビアが表示された。ハーディ牧師はその意味と指示をはっきりと理解した。昼までに列車でヒースロー空港へ行き、飛行機でスーダンの首都ハルツームへ、そこから列車でダルフールの州都ニヤラに向かい、少しだけタクシーに乗ってバプテスト派の伝道本部へ。その後、素早く目立たぬように|拷問犠牲者治療施設《アメル・センター》にあるCIA専用室に出向き、テロ容疑者に尋問。
 ハーディ牧師はこのルーティーンについて良心の呵責を覚えたことはない。海外で活動するキリスト教伝道団と諜報機関は何十年も前から深い付き合いがある。人道支援活動、愛の教義、テロと核拡散を防ぐ作戦活動。そのどれもが、|平和の礎《エルサレム》を築くという使命の一環だ。緑豊かで快適なイギリスという土地だけにその建設を限定する理由はない。
 二階に鞄を取りに行ったハーディは、館に向かって大股で歩いてくるドロシー・ブレイクの姿を見つけて密かに溜め息をついた。さっさと済ませなければ。ドロシーは三年前にこの土地にやって来たときから、彼にとってこの上なくありがたい存在だった。実質的にこの教会を切り盛りし、生け花を入れ替え、日曜の聖書朗読の輪番を決めているのは彼女だ。彼女が作るおいしい焼き菓子の屋台がなかったら、夏の慈善バザーはどうなるだろう。あれがなければ誰もバザー会場に足を運ばないのではないか。でも、彼女は時に話が長い。今はそんなことをしている場合ではない。彼は呼び鈴を鳴らされる前に玄関を開けた。
 「あら、ティム。朝早くからすみません。昨日ビンゴゲームのために作ったアーモンドスポンジケーキが少し余ったから、お裾分けしようと思って」
 「それはぜひ――今ここで一切れいただこう。ちょっと急いでいるので。ニヤラの|伝道団《ミッション》に行かなくちゃならない。飛行機に、急に空席ができたらしくて。おかげでチケットはバーゲンプライスだ。新しく作っている児童養護施設がどこまでできたか、確かめようと思ってね」と彼は口にケーキをほおばったまま言う。
 「|伝道団《ミッション》。牧師様にとって大事な|任務《ミッション》ですものね」
 「おいしいね、これ!」
 「ジョイスの店のラズベリージャムで作りました。今日はなんだか、春の空気が漂ってますよね。この後はまた、桜のカップケーキでも作ろうかと思います。召し上がっていただけないのは残念だけど」
 “春の空気”――なぜ妙なことを言うのか。凍えるような寒さだし、予報でもにわか雪があると言っていたのに。「楽観的なのはいいけれど、予報によるとまた雪の季節に逆戻りだそうだよ」
 「そう。もうすぐ春です、ティム。世界中に春が来る。新聞は“アラブの春”で持ちきりでしょう?」
 これもまた妙。今までにドロシーが話で触れたことのある情報源は、イングランド国教会が月に一度刊行している雑誌だけだった。
 「ドロシー、君が政治に興味を持っているとは知らなかった。ひょっとしてこっそりデイリー・テレグラフ紙でも読んでいるのかな?」
 「誰にだってちょっとした秘密がありますよ、ティム。私の名字のブレイクだってそうです。うちの家族は本当はアゼルバイジャンの出身で、父が移民の際に姓を変えたんです」
 「そうか。君はウェセックス地方の出身だとばかり思っていた。君が作るお菓子だってアップルケーキとか、ブラックベリークランブルとか、ドーセットノブとか……」。牧師の意識が遠のく。目の前で巨大なスポンジケーキが広い野原を漂い、頭がひどく混乱した。
 ドロシーが笑った。「伝統的な焼き菓子です。私のお気に入り。父もこれが趣味でした。他にもいろいろな料理の秘訣を教えてくれましたよ。ワイルドチェリーの種からシアン化物を抽出する方法も、その味をごまかすためにスポンジをアーモンド風味にすることも。今年の春は南からやって来るみたいですね、ティモシー。あなたがそれを目にできないのは本当に残念」

(http://www.hashslingrz.com/first-day-spring)

【訳者解説】
 hashslingrz.com は、トマス・ピンチョンの新作『ブリーディング・エッジ』(以下、『BE』と略記)刊行に合わせて作られたサイトで、作者不詳のショートショートが掲載されています。どれもピンチョン風の味わいがあり、面白いものに仕上がっています。改編・転載などに関するクリエイティブコモンズのライセンス条件が、著作者表示、非商用、条件継承ということで、本人にも日本語訳掲載を了承してもらいました。
 ルビを振りたい部分は、HTMLのルビだと環境次第で変な見え方をするので、データの使い回しがしやすいよう、青空文庫書式(例、「薔薇《ばら》、区切りが分かりにくいものは「|偏執病的《パラノイアック》」)にしています。
 ひとまず、あまり説明が必要ない短編をご紹介します。

・「春の最初の日」(九月五日公開)について
 『BE』は「二〇〇一年春の初日」という言葉で始まる(一頁)。短編タイトル「春の最初の日」はそこから取られたもの。内容は『BE』とは無関係。
 話の展開は他の作家が書いたショートショートにもありそうだが、キリスト教の伝道と諜報機関の結び付きを指摘するところ、アラブの春に言及する同時代性、スーダンの地理の具体性、シアン化物がワイルドチェリーの種から抽出できるという知る人ぞ知る化学的事実への言及などにピンチョンっぽさがうかがえる。注釈は不要かもしれないが、MI6は米国のCIAに相当する英国の諜報組織。アメル・センターという施設はスーダンに実在する。
 人名や地名にちょっとした文学的お遊びが加えられている。ウェセックスは英国の小説家・詩人の、ティモシー・ハーディならぬトマス・ハーディ(一八四〇-一九二八)が小説の舞台として描いた土地で、キングズベアもハーディの小説『テス』などに登場する架空の町。英国の詩人ウィリアム・ブレイク(一七五七-一八二七)の作品には大作『エルサレム』(一八二〇)、詩「春」などがあるが、ここではむしろ、ロンドンに実在する焼き菓子店「ブレイクのケーキ屋(Blake's Cakes)」が意識されているかもしれない。「ジョイス」もあのジェイムズ・ジョイスかも。
 ちなみに作中で言及のある「ドーセットノブ」は、ドーセット地方名物の、ドアノブほどの大きさのある乾パンみたいな食べ物。
(了)